
戦前の陸軍特務機関、藤原機関(通称:F機関)
発刊日:2026年8月12日
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F機関は戦前の陸軍に設置された諜報機関の一部である。この"諜報"と"情報"との違いは何か、政府の裏の仕事か表の仕事かの違いである。日本の防衛省や外務省を含む政府機関は法治下からなる組織である。戦国時代のころからと言われている日本の忍びも同様の非統治下の組織であったようだ。なぜ、法で統制する組織と法で統治しない組織が存在するのか、本誌ではその要点から、藤原機関の話をする。 |
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、この特務機関の仕事は人民に対する大衆情報の攪乱を図り、デモからの誘導に始まる国民の先導が目的の一つでもあり、拘束したスパイを尋問にかけ、敵の神経中枢を破壊させ、機密情報を入手するなど。何も映画や小説の話などではない。今も臨戦状態の国家機関でこの工作員達は国家国益のために戦っている。共通の掟は、「誰にも知られず静かに幕を閉じる」というのがこの筋のテーゼだ。 |
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軍人は戦略を立案し、戦闘を実行する。されど、この特務機関においては、一切の評価はいらない。俸給も手当も全くないのである。万が一、工作エリアで命を落としたところで、何ら保証は存在せず、当然のことながら香典も一切ない。当然のことながら、全くの労働ではなく国益の為に命を捧げることが我が天命と悟り、最後の死ぬ瞬間まで任務を全うできる者がなる。 |
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戦国の時代から、同様の組織があった。忍びと言われている特務班の組織であった。必ず藩主などとの契約がその存在根拠となっていた。江戸幕府であれば伊賀者及び甲賀者などと忍術の組織を作り、戦前の特務機関も同様に目的を細分化し、組織されてきた。。特務機関や忍びなどの工作集団は法治下による組織ではないことから、駐在する大使館内の敷地と同じで、国家の治外法権から分離されているということだ。 |
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在留する海外大使館が使うガソリンの油代は免是扱いとなり、半額となっているのは治外法権ではないが、人民の亡命が多い国家の隣国大使館では、防衛の対処にも大いなる負担がかかるのもその治外法権という法の仕組みがその背景にある。大使館に逃げ込めば亡命した人たちの亡命という国家犯罪で摘発することができない。外国の大使館であることから、逃亡先の大使館を統治する政府から、逃亡者の身元引き渡し交渉がいつ用になるからである。 |
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このように、治外法権というのはその国家の法律が機能しなくなることを指す。特務機関や忍びの工作組織が全く同じことかというと、そうでもない。特務機関などが治外法権として工作活動を黙認できなければ公費で諜報活動をすることはできない。外国の諜報工作員を拿捕するのに、検察の令状を取ることなど現実的に不可能だからである。世界の諜報機関は、掟はあるが法律がないのがこの機関であるともいえる。 |
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工作の世界にはダブルスパイという活動もあり、人身上の身分や役割など全くの偽装から成り立っているのがこの世界のようだ。本題の藤原機関(通称:F機関)だが、機関のトップであった藤原岩市は先の戦争時に旧日本軍が開発したタイとビルマを結ぶ泰緬連接鉄道(旧:日本軍の正式名称)の現地調査業務や明け渡し交渉など一切の裏任務を請負した。1942年7月に着工し、1943年10月に全線が開通(約1年3ヵ月の突貫工事)したこの鉄道は、延べ10数万人以上が動員され、この工事は完工した。 |
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兵器をもって人を殺すだけが戦争ではなく、占領国の経済発展を担うのも戦争の一環である。おおよそ、戦争の発端は食料やエネルギーなどの命に係る問題が多い。産業革命がともない経済の格差が解消し始めた時代、政府が有効な経済政策を担い、企業や国民への適正な資金循環さえ担えば、まず、国民が戦争を望むことはない。されど、政治の失策や破壊的な天災が起きたときは国民の要求は命がけの暴動へと瞬間に変質するやもしれない。 |
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当時のこの藤原機関は、この他、マレー侵攻の作戦執行時に情報収集ばかりではなく、様々な諜報工作を仕掛けた。1945年の終戦の年、インドのチャンドボースらと共にインド国民軍の編成や戦後のインド独立に大きな役割を担った。同様に西洋の植民地政策からの独立を望んだ国家には、少なくとも軍隊と呼ばれえている組織が養成されておらず、現地の残留した特務機関員たちは一から軍事教育を実施したのが実態であった。 |
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治外法権から成立した組織であったこともあり、一般の軍人と同様の帰国をせず、自らの判断でその道を選んだ。このように特務機関の構成員たちは自己判断で何事も決定できる教育がされていた。戦後、帰国の途に就いた藤原岩市は市ヶ谷で決起した三島由紀夫の後見人となり、部下だった山本瞬勝を紹介し、三島を自衛隊へ体験入隊させ、特務機関と同様の軍事教育を施した。 |
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縦の会を作り、1970年(昭和45年)11月25日、市ヶ谷駐屯地での決起となった。このクーデターの35年前、1936年(昭和11年)2月26日は陸軍将校によるクーデターが起き、この5年前には、三月事件、十月事件、も予備的なクーデターもあった。この事件は当時の陸軍参謀本部の橋本欣五郎が起こした事件だが、擁立する政府要人の同意を得ることが出来ず、失敗に終わり、2.26の様に世間で取り上げることも少なかった。 |
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三島由紀夫のクーデターも橋本欣五郎に始まった2.26事件も、選挙制度を持つ日本の民主主義の限界であった、とも映る。されど、日本には天皇制という国体があることとから、国内で戦闘が開始され、国が分断してしまうところまで事件が拡大することはなかった。市ヶ谷の決起はクーデターと呼ぶより、三島由紀夫の死を賭した戦後最大のメッセージであったと確信する。 |
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56年も前から自衛隊の国軍化を唱えていた三島由紀夫、NATOへの武器輸出拡大を目指し、防衛装備移転三原則の見直しを始めた今の政府。当時、三島は国連軍への参加はNATOへの指揮系統命令下に日本の自衛隊が下ることを懸念し、自衛隊の分割を要求していた。三島が今の国会討議を見ていたら、どのような行動を起こしていたのであろう。 |
| 読者の中にも確立した防衛論をお持ちであると理解するが、共通するのは全て国体であるという事実。EUが誕生する前の欧州の国々は王様がこの国体を担った。されど、EUに参加した欧州の国家は既に国体を失った。大きな課題は政府の独断で国債の発行が出来ず、予算の運用も自由ではない。 |
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半面、EUを脱出したイギリスは王室という国体を堅持し、国債や通貨発行に関する自治権を保持している。ここで読者の皆様方に検証していただきたいのが、先般に採決した皇室典範の改正である。戦後GHQの改正時には止むを得ない緊急事態に際し、天皇制の護持だけが敗戦国としての最後の望みであった。 |
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天皇の継承権問題を国会で討議して決めることはいかがなものか、立憲君主制度ということばは敗戦後の我が国に天皇制を護持させるための国体護持の切り札であったはずだ。その真意もくみ取らず、一政治家たちが皇室典範の改定という姑息な手段で法律の改正を図り、万が一にでも天皇制たる国体を憂うような状況が起きたのならば、戦前に起きたクーデターがいつ起きても全く不思議ではない国難が訪れているようにも見える。 |
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